大月-三原行(6)

Iryo2008-10-22

合宿場のような場所を川村さんに用意してもらって,みんなで自炊をして暮らしている.昨日はお願いして農家に泊まらせてもらった.自然薯をみなですり鉢ですって,火をおこし釜で飯を炊いて食しながら,いろんな話をした.この場所にいろんな人に来てもらいたい.という言葉が印象に残った.

株価は8000円を割り込んだ.医師がいなくて妊婦はたらいまわしにされて死んだ.毒の入った食べ物が産地偽装でバラかまれている.そういうニュースを見た.ニュースを見たのであって,現実を見たわけではない.解説者は医師が足りていないとか,そういうことを言っていた.当たり前のことをしたり顔で言ってみても何の意味があるのだろうか.

世界遺産だとか文化的風景だとか,あるいは地域づくりだといってメディアに流れる「素材」がある.「素材」は生きているし,その「素材」には背景があるだろう.だけど,素材は切り刻まれる.理解できなければ,理解しようと努力するのではなく,寧ろ簡単に理解できるものを探そうとしているといえばいいだろうか.理解したふりを消費しているとでもいえばいいだろうか.理解できないもの,理解すべきだったものが溝に捨てられ,堆く積まれ,ここまできてしまったような後味の悪い感覚がある.

「好き」の反語は「嫌い」ではなく「無関心」である.風景の中になんらの関係性も見出せないなら,もはやそれは風景ではない.理解したいものだけしか理解しないのは快適かもしれないが,向き合う人のいなくなった土地は無残だ.

人はこの土地と向き合い生きている.人はどうやってその風景の中で土地と懸命に向き合ったのか,そのことを理解することからはじめたい.やる気の人たちが集まってくれて,何をすべきだろうかと5時間も,みんなでゆっくり時間をかけて話しあった.難しいかもしれないけれど,ゆっくりしみこますように理解したいと思った.