大月-三原行(3)

Iryo2008-10-19

大堂海岸には海沿いの高い場所を通る旧道があり,車も殆ど通らないその道の脇にホルトの巨木群がある.この道を歩いた.ホルトの木はところどころ赤い葉をつけるので,ホルトの木を見分けるためにたぶたび上を見上げることになる.見上げると,そのうち浅黄色の蝶が舞っていることに気付く.ふわふわと羽を動かすことなく,緩やかに道沿いの高い場所から,滑空しながらすーっと目の前を横切り,海の方に消えていった.

都会にいると,土地とヒトはどこかで切り離されていると感じることが多い.自分の利益には敏感であっても,他人やまちのことには驚くほど無関心な人は多い.小分けに分業された仕事を担うサラリーマンが増えた.結果,都市では楽な暮らしが送れるようになり,金融やマーケットの動向が人々の生活の多くを支配するようになった.あるいは川遊びもしないで大人になる子供も増えた.

どこか遠いところで何かの目的が設定され,場所や時間がお金に置き換えられ,いつも慌てて結果を出す.そのための会話と行為,あるいは剰余がないような計算が求められている.装置と化した社会の中で多かれ少なかれ人は生きているが,就職も転職もビジネスも,会ったこともない人の行ったこともない土地での経験が一旦情報として整理され,正解らしき道筋が示されるのは聊か堪らないきもちになる.なんといえばいいか.

玉葱をきるようなかんじで.といわれたと.ピアニストの友人は欧州で受けたレッスンで使われた表現について語った.何かしら深い理解とそれをもたらす対話が,もしも互いの内部にある感覚言語で行われるものだとしたら,自然の中から日常の生活の中から生まれる様々なリズムを,皮膚感覚として理解することで,互いが共有しあえる世界はすこしは変わるのかもしれない.

そのことが装置そのものを変えるほどの力があるのかはわからない.しかしともかく人間の心はそんなにはっきり割り切れるものだけではできていないのではないと思うのだ.

道の途中で,同行二人という札をかけて黙々と俯きながら一人歩く年配のお遍路さんの姿を見た.この世界が利潤だけで構成されるとしたら,こうして歩くことに意味などないのだろう.しかしなぜだか,こうして祈るように,ただ只管に歩く人がいる.すこしだけこの土地の感覚がからだにしみこんでいくような気がした.