波止浜 潮の抜け道

Iryo2008-05-17

波止浜で風景づくりの学校「潮の抜け道」を開校してきました.全部で4回開催します.子供たちと一緒に波止浜の風景をみつける,まもる,伝えるというテーマで,風景歩きや塩づくり,風景新聞づくり,ラジオ収録などを考えています.

波止浜は,来島海峡にある天然の良港です.深く入り組んだ箱型湾の前には,敵を見渡すために最適な来島が位置しています.天然の良港の条件を満たした波止浜港は,今は今治造船をはじめとするドックで多くの船が造られ続けています.

そもそも波止浜という地名は,箱型湾を塩田をつくるために波を止めた浜(=塩田)にしたということで「波止浜」という地名になったのですが,瀬戸内海の向かいの竹原で盛んだった塩田技術がこの地に伝わり,江戸時代ごろから塩田開発が進みます.

風景づくりで何度かお邪魔させていただいている宇和島の津島の小西家も岩松川の付け替え事業を行い財を成したとのことですが,この頃の日本は土木事業で川の付け替えや農地,港,塩田の造成を行い,多くの富の集積が生み出されています.

もともと日本という場所は,「自然との接し方」に大変特徴があるのです.遷都は天皇の代替わりという政治的な理由よりも,森林伐採による水不足が原因ですし,やまたの大蛇もたたら製鉄による木の伐採で引き起こされた水害伝説というのが定説になっています.とにかく日本には山と氾濫原しかない.そういう状況の中で,氾濫原を治めるには土木技術を駆使するしかない.

まず川を治める.川は水運を活性化する.川は海へ向かい,港をどうつくるかがテーマになった.昔は奈良でも京都でも内陸部に都市が離れた場所に港が置かれる外港方式だった.港と都が一体化したのは頼朝の鎌倉,ついで信長の安土.家康の江戸.実利を重視する武士の頭領は都市を海の傍におき,高度な土木技術が駆使され,都市は一体化していく.海が富に欠かせないことに気づいたからです.

波止浜では,塩田の経営者は浜旦那として知られ(浜=塩田),塩は北前船を使って大阪や各地に運ばれ,富の蓄積をもたらし,塩田から綿織物,船,銀行,ガス,さまざまな企業が生まれていくことになります.

こうした中,八木亀三郎は,日本で最初の3000トン級の蟹工船をつくり,単身ロシアに乗り込み波止浜の産業の多角化を試みた人ですが,波止浜の本町通には彼の迎賓館ともいえる豪奢な旧家が今も残っています.

今回は,八木亀三郎邸を子供たちと一緒に探検してみました.八木亀三郎邸は広大な敷地の中に,商売用に接待をする家屋と,生活用の家屋,使用人用の家屋,蔵などから構成されています.接待用の座敷の前には大きな庭がひろがっており,子供たちと一緒に庭から,邸を一望にできる裏山に登り,風景カフェをしてみました.

裏山は鬱蒼とした木々で茂っています.薮蚊にさされながら,回遊式庭園の一部を構成している裏山を歩き回ると,当時八木亀三郎さんも野点をしていた思しき場所にでます.潮の香りがする風が吹き抜けてきて,なかなか気持ちがいいです.100年前,亀三郎さんはこの場所でいったい何を思ったでしょうか.