島根 石見銀山

Iryo2008-04-23

石見銀山に行ってきました.すごいね山陰.おもしろすぎます.

戦国時代の末期,博多に神谷一族という豪商がいて,当時九州で大きな力を持っていた大内氏に食い込んで政商として活躍していました.勘合貿易(いわゆる日明貿易)の担い手として,大きな船をつくり,貿易を行い,ときには雪舟のような文化人を明まで運んでいたそうです.八木亀三郎みたいですね.

銅鉱石を吹き分ける技術が明にあって日本にないことに注目した三代目の神谷寿禎は灰吹技術そのものを輸入し,西の博多港と東の石見銀山を結びけていきます.大内氏の政治的支配と神谷家による経済ネットワークが一体のものとなり明や東アジア,さらにはスペインをはじめとする欧州と大きく結びつき,環フィリピン圏のケイザイが爆発的に拡大していきます.

銀は精錬され街道を通って,銀山から数km離れた港まで運ばれます.湾はいずれも深く切れ込んでいて,風よけ,潮よけのため入り江の前に島が背後に山がある典型的な良港です.温泉津の前面に浮かぶ小島は櫛島で毛利は大内,尼子と続いた石見銀山支配を自分のものとしたあと,港の防衛に全力を注ぎ,島に城を築き,毛利水軍御三家を奉行としてここにおいたとのこと.

当時,世界の銀の生産量の1/3は日本産であって,大きな流経路は石見から博多,対馬,釜山,明,マカオ,スペインと大きく広がっていきました.戦国時代の大名間の争いは銀の流通・経済ネットワークを誰が手中に収めるかの戦いであったといってもいいのではないでしょうか.

で,このあたりの港(鞆が浦と沖泊)には鼻繰り岩というのがあって,漁船の係留に今でも使われてて,ここから銀は世界各地へ向かったと想像すると,なかなかわくわくするようなおもしろさがあります.

毛利が一旦は納めた石見銀山は豊臣から家康にわたり,天領となることで,徳川幕府に経済的安定をもたらしたといえます.それはシルバーラッシュに伴う銀という世界的な経済ネットワークと高度な灰吹きや露天掘りといった技術を同時に手に入れることで,佐渡の金山などの開発がさらに進むことを意味していました.

銀を掘るというのはどういうことかといえば,鉱脈をみつけ,町をつくり,坑道を掘り,ネットワークをつくり,燃料に必要な木を切り出し,再度植え,森を守る.都市計画であり環境計画そのもののように思えます.信玄や家康はこうした技術者を厚遇し,戦争の場で使い続けます.篭城する城の水抜きなどに真価を発揮することで戦局は大きく転換していきます.

漫画家の森秀樹さんが描いたムカデ戦旗は,戦国時代の名もなき技術者集団が,自分たちの技術そのものを武器にどうやって時代に立ち向かって言ったのかという物語です.

高度な技術は人について回ります.家康は石見銀山の地役人を直接もてなし,坑夫は集団で技術の開発を行い,佐渡対馬を渡り歩き,集落の都市計画にも力を発揮し,当時江戸100万,金沢,名古屋5万に対し,石見では10万人の人が暮らしていたとの説もあります.

兵どもの夢のあと.とはよく言ったものですが,銀を媒介とした,世界までつながる銀と人と技術の伝播ネットワークの壮大な広がりを感じることができました.遺産保全活動そのものも,マイカーでの進入を禁止し歩きでの間歩(まぶ)とよばれる500以上の坑道へのアクセスを推奨するなど,抑えた形でよく進められており,世界遺産に相応しい奥行きのある地域を感じることができました.