因幡の風景街道

大学時代の後輩さんの招待で,鳥取河川国道工事事務所さんと鳥取大学さんが主催している因幡の風景街道の懇談会に参加してきました.

因幡地方というのは,出雲にも近い播磨にも近いし倉吉にも近い,昔でいえば相当に便利なところです.当時は,出雲が大和に国譲りをしたりで,この因幡はちょうど両者結ぶ中間くらいの場所にありました.

この葦原の中つ国は,お言葉のとおりにことごとく天つ神に奉ることにいたそう.ただ,わが住処(すみか)だけは,天つ神の御子が,代々に日継ぎし,お住まいになる,ひときわ高くそびえて日に輝く天の大殿のごとくに,土の底なる磐根に届くまで宮柱をしっかりと堀り据え,高天の原にも届くほどに高々と氷木(ひぎ)を立てて冶めたまえば,われは,百(もも)には満たない八十(やそ)の隅の,その一つの隅に籠もり鎮まっておりましょうぞ(古事記より).

みたいな話があるくらいで,出雲の大国主神が建御雷神(タケミカヅチノカミ≒大和)に服属するのと引き換えに壮大な宮殿の主として鎮座することになった出雲の大国主神がここまで強気なのは,たたら製鉄という実体経済と無縁ではなかったのではないかと思います.

白村江の戦い以降,九州政府が急激に力を失ったとはいえ,日本を平定しつつあった大和を支える経済の源の象徴が彼の地にあったとみれなくもありません.日本という場所は物語が多い場所ですが,ひとつの原因は,地域の多様性にあるのではないでしょうか.集落の小豪族を神に見立ててれば,八百万(やおろず)の神の存在というのもリーズナブルなものに感じます.

まあもっとも古代ローマだって同じように多神教の世界でたくさんの土着神がそこら中に祭られていたわけですが,テオドシウス1世がキリスト教を国教としたことで,背教者ユリアヌスがミラノの勅令によって守ろうとしたギリシア多神教の世界は破壊されつくします.以降,ローマのローマらしい魅力は急速に失われていくといったら言い過ぎでしょうけれど,ともかく,確かに,日本だってローマに負けず劣らず物語の宝庫であるなあと思いました.フィクションをノンフィクションにつなげていくことは容易ではありませんが,そういうことを考えている人たちが彼の地にはいます.