内海 風景絵本づくり作戦会議

内海に行ってきました.

風景を生かした物語をつくるというプロジェクトです.最初は地域の物語(民話)を掘り起こして,絵本にしていくという話だったのですが,ふと気づくと,自分たちの地域で一番いい風景を12枚つなげて新しい物語をつくるというプロジェクトに.それでも,なかなか楽しい意見交換ができてよかったです.

新しい物語の主題は「みつける」「まもる」「つたえる」というようなことだと思いますが,そもそも日本語で描かれ口承されてきた物語というのは,過ぎ去った出来事を語りながら現在形の文を挿入し,臨場感を出すという手法が用いられるって特徴があります.たとえば平家物語でもっとも有名な那須与一の一説では,

ここのうちに祈念して,目をみひらきたれば,風もすこし吹きよはり,扇もいよけにぞなったり「ける」.与一鏑をとってつがひ,よっぴいてひゃうど『はなつ』.鏑は海へ入りければ,扇は空へぞあがり「ける」.

といったように矢を放つ主人公の動作だけが『現在形』なのです.

江戸子時代に書かれた上田秋月の「雨月物語」,明治に入って口語体が増えてきた時期の名作である鴎外の「寒山拾得」,(私の好きな)漱石の「夢十夜」でも,現在形と過去形の混在がとにかく多用され,見事なリズムを作り出しています.

こんな夢を「みた」.和尚の室を退って廊下をつたひに自分の部屋へ帰ると行燈がぼんやり『点っている』.片膝を座布団の上について,燈心を掻き立てたとき,花の様な丁字がばたりと朱塗りの台に「落ちた」.

実にシビれます.半過去や過去,現在,未来といった厳密な時制を持つフランス語や英語に比べると,日本語には時制の使い方の決まりがゆるいという特徴があります.鋭く時間を区別しない.物語そのものに建築的な構造や年代順のような秩序も存在しないただひたすら『今』を重視しその対比で臨場感を語ろうとするところに日本の物語の描かれた方の特徴があるように思います.

日本のことわざににしてみても,「過去は水に流す」という表現があるように,過ぎ去った過去は忘れ,過ちはいつまでも追求しない,そのほうが個人の,集団の今日の活動に有利であるという『今』を重視する文化がある.また同時に,重視される『今』の出来事は必ず当事者の生活空間で起きていて,「鬼は外」は日本の空間概念をよく表した言葉だと思いますが,この諺においても関心は常に集団の内部にあって,外にはない.たとえばお盆に典型的な祖先崇拝の理由も,「ここ」の出来事にかかわり,毎年「ここ」に帰ってくる霊への関心にあるように思います.

「今」と「ここ」への関心が日本の物語の特徴だとしても,もちろん「ここ」と「今」からの脱出を「旅」として表現する「浦島太郎」,「桃太郎」のような話もありますが,その旅はあくまで「ここ」へ回帰するための「旅」の物語なのです.風景を連ねて物語を作るという作業が案外難しいように感じていしまうのは,概ねこのような理由によるものです.

日本で最初の(自ら足を現場に運んで描いた)風景画家はおそらく雪舟であり,(旅をして)短詩形にしたためたのは芭蕉です.しかしこういった例は日本の絵画や文学の世界ではきわめて稀です.私が思うに日本人は自然を愛したわけではなく,彼らだけが(例外的にゆえに創造的に)自分の外にある自然と風景を愛したのではないでしょうか.

しかしながら,「今」と「ここ」へのこだわりを「ここではないどこか」とのつながりを通じて物語をつくることが今求められているような気がしていて,遍路に代表される身体性のある行為がもつ意味をよく考えながら,この作業にこだわっていけたらと思います.

一本松の森岡さんから手作り羊羹を,遊子の松田さんからじゃがいも焼酎「段尺」をいただきました.週末ゆっくりいただくのが楽しみです.