大山祇神とニライカナイ

昔から神社が好きで,小さい頃から一人で境内で遊ぶことが多かった.だいたい,初めていった場所では祠や神社を探す癖がある.なんでああいう場所は落ち着くのかね.

しまなみでいちばん大きな神社は大山祇神社だが,祭っている大山祇神日本書紀の最初,矛の先をかきまぜて国を作ったイザナギイザナミの息子である(とされる).イザナミを追って黄泉の国で彷徨ったイザナギが左目を洗って生まれた天照大神(アマテラスオオノカミ)より先んじて生まれた兄神大山祇(オオヤマスミ).瀬戸内海を地中海に見立てたとき,その瀬戸内海の中央にあって,大きな存在を示す大三島に鎮座し,別名が「和多(海)志大神」であって山と海の神,おまけに日本総鎮守という設定は,全知全能の弟神ゼウスが唯一怖れた,自由気ままに地中海をおさめた兄神ポセイドンと重なる.

大山祇神社に最初行ったのは小学生の頃だったが,当時はしまなみ海道なんてものはなく,今治から船でのんびり渡った.港から参道を歩いて神社まで歩くと,樹齢2000年以上の日本最古の原始林に覆われた,静謐で美しい境内が迎えてくれたのだが,幼いながらも,ああいう場所をどこか神々しいと思い,また美しいと感じた.あれは果たしてどういう感情だったのか.なにを美しいと感じたのか.

ゴミひとつない境内は珍しくないわけではないが,その広さに対して手入れの行き届き方がすばらしかった.やさぐれた子供にも普通の子供にもああいう場所は平等に美しかった.もちろん境内に玉砂利をいれたりする神社は多いし,そうすれば見てくれも美しく手入れも簡単なのにと思わぬでもない.しかしそうはしていない.近くに一泊して見に行けばわかるが,朝早くから広い境内にたち,土をただ丁寧に掃きそろえ整えているひとの姿が見える.ごみひとつあれば目立つ大きな境内を,朝から数時間かけて掃き掃除をすることで,あの神社の社の風景が成り立っていた.

たいていの人にとって,そいうことはどうでもいいことかもしれない.別にどうでもいいことかもしれないが,似たような風景を,大人になってみた.沖縄の竹富島もいまどき,朝から海砂を敷き詰めた道をみんなで掃き掃除する.蒼井優が出演したニライカナイからの手紙竹富島を舞台にした物語だが,海砂を敷き詰めた道を丁寧に掃き清める姿が印象に残る映画だった.

古来より信仰には水平信仰と垂直信仰があって,垂直信仰の代表は天孫降臨だが,水平信仰はニライカナイ信仰がそれにあたる.空と海が交じり合う海の遥か彼方に神様がいて,毎朝丁寧にニライカナイから彼らが帰ってくる道を掃き清め,還ってこない母からの手紙を岬で一人読み,桟橋にたち水平線の遠くを眺め待つ.そういえば天と海人は両方「アマ」と読む.水平信仰も垂直信仰も案外近いのかと思う.

生活があって,にっちもさっちも行かなくなったとき信仰が生まれるのかどうなのか.縄文の頃から瀬戸内の生業といえば漁撈であり,日本であれば木の船に乗り,山アテと呼ばれる島々の突端を目印とする測位法が,生業としての経済を左右し,ときには生命をも分けたであろう.地形があって,海に生き,彼をまつり,頼りに生きた.あの場所を作り,人は何を願い,何を信じて,今も待っているのか.そういうことを不思議に思う.