普遍性と個別性

計算中.

ふと札幌で今月頭にあった学会で1セッションすべてmixed logitなどというセッションがあって(逆説的にだけど)感銘を受けた.なんでそんなにmixedが流行っているのかといえば,選択肢同士の相関を表現したり個人の異質性を表現する上では,確率項を構造化しその相関をそれぞれの関係性ごと個別に取り扱えば適合度が向上するからに他ならない.

たしかにパラメータのバイアスはなくなるし,欠損があったり,繰り返しのデータにはいいのだろう.しかし,私は感覚的にはmixied logitが好きではない.(まったく研究者らしからぬ感覚的なコメントで恐縮だが)あの感覚はなんというか潔さがないというか美しくないといえばいいだろうか.

SASの統計モジュールにmixed modelというプロシジャーが追加された際に,(修士2年の頃だったか)東大の医学部のセミナーに潜り込んで聴講したことがあるのだが,そのときの議論にも似たようなものがあった.あのときは確か変数の効果を治験で見るにはバイアスを除かざるを得ないのだから,これしかないという結論になったように記憶している.一般化線形モデルという表現を使っていたので,mixed logitもおそらくは一般化ロジットという表現が適切だと思われる.

私は,GEVのclosed formの式は美しいと思っている.それは紙と鉛筆で確率が計算できるからだ.一方,mixed logitは混合分布を使っているので最後は正規分布の密度関数を数値積分でコンピュータで計算せざるを得ないのでなんというか泥臭いと思う.ましかし,パラメータ推定の行為そのものが泥臭いという話で,ジャブジャブ個々の関係性は洗っているので,それそのものはすっきりみえて悪くはないのかもしれない.

しかし一般化といえば聞こえはいいが,それは個別の関係性にいささか拘泥しているともいえよう.open formのmixed logitを整合的にネットワーク配分モデルに組み込むことは残念ながらできないのだ.やはり,そこから全体の普遍的な関係性は見えてこないような気がしてならない.モデルを考えるとき,そのモデルは,全体としての論理性を喪っていないだろうか.といつも思い返す.

閑話休題

しまなみの風景を眼前にするとき,たぶん「橋」を除いて考えることにはもはや無理がある.誰もがあの風景を思い浮かべるとき「橋」を前提に考えるだろう.それほどに来島海峡大橋をはじめとするしまなみの「橋」の存在は大きい.

橋にはテンション構造というのがあって-いわゆる斜張橋などがこれにあたるわけだが-瀬戸内の中でも随一を誇る多島美にかけられた橋の多くはテンション構造を基本にしている.テンション構造はあの多島美に映える(ように見える).力学的な特性が目に見えてわかりやすいことが大きいのだろうが,兎も角,映えるという表現は地の性質があって全体もよく見えるということである.

但し,橋そもののを云々いうほどには,私の設計計算暦は学部2年から4年までの間,設計コンサルタントで図面を毎晩遅くまで引いて構造計算用のコードを書いていたということ以外の経験はない.したがってあまりえらそうにはいえないわけだが,兎も角有限要素法を使うとかなり意匠上凝ったデザインが可能になるのは確かである.攻めたデザインができるといえばいいだろうか.実際計算テクニックそのものも研究としてはおもしろいし,土木学会や建築学会でも特筆すべき意匠と技術の相互進歩の一例として語られることは多い.

かつては彫刻や絵画でのも可能であった表現の自由は,建築や土木構造物にまで拡大されつつある.デザイナーの自由な構想を空間として成立させることを可能にしたのは構造計算と材料技術の進歩であるというのは自明であろう.しかしなんとなくそうしてかなり自由に攻めたはずのデザインがあったとして,それは一体なんなのかとも思う.


橋というのは本当はもっと単純なものだ.ここから海や川を隔てた向こうにいくために橋をかける.橋はまずかけて「その場所」をわたれることが重要である.複雑な造形でも,計算すればパラメータは決まるし,構造を持たすこともできる.攻めた造形も可能になるのだろう.しかしそれでは見えてこないものもあるのではないか.(まるでmixed logitのような)その場所への過適応といってもいい.要するに今となっては困難かもしれぬが,再帰的姿勢で持って,目の前に広がっている風景を眺めることは重要ではないかと思う.

波止浜の糸山からみえる鯛釣船の群れは壮観だ.来島の鯛は「身がいかる」という.いかるというのは身が引き締まっているという意味だ.東京や京都の恒久料亭で出る鯛はしっとりと絹のような舌触りがウリなのかもしれないが,それはなんというか年寄り向けの高級料理としてはありでも,素材の本当の味とはいえぬ.確かに血ヌキをして,日を置けば,身はこなれ舌触りも柔らかく食べやすいことが事実だが,旬の素材を味わうとはいえないだろう.

旬とは天皇の公務の周期がおよそ10日程度であった頃,10日に一度,政務を聞いたうえで季節の食材をおさめるという旬儀をおこなったことから,材料の新鮮さをあらわす言葉となった.日本人は縄文の昔から貝塚文化を見てもわかるようにいかにも旬を好む文化を育んできた.それは大陸に見られたような巨大な物流システムや保存食文化とは無縁の文化である.

漁師は,海の上での漁場の位置を山を見て決める.魚は海のどこにでもいるわけではない.海は広いが魚がいるのは限られたところである.その場を見定めるのに海に印は使えないから,山を見る.浜辺の岩と山の向こうの松を見立ててその位置で見通し線をたて,それを2つの方向にたてて交点を漁場とする.そんな具合に漁師は山の上を見て過ごしていた.そういう風景がここには展開されている.来島の潮の流れは日本で一番速い.その土地の風景の中にあるものを生かし見立てて日々を過ごすという文化が今も息づいているといってもよい.

橋のある風景を生かすというのはいえば簡単なフレーズではあるが,なかなかに難しい.しかしその場所に立ち,その風景の中を歩くとき,その場所で感じられる生活景のスケールにあった一貫した論理の構築が,橋を生かすプログラムを考える上で重要だと思うのだ.移動するまなざしがとらえる橋の向こう側に存在するこちら側とは違う風景.それをつなぎあわせる橋の意味とは何か.しまなみを歩くとき,自転車でわたるときに感じられるあの全体のスケールに対して,ある種の普遍性のある主題とそれに基づく体験と交流をデザインできたとき,その場所そのものの空気がひきたつのではないかと思う.